cultura

culturaとは古典ラテン語における耕すという意味。

食品添加物は聖人へと誘うのか

人間の肉体は腐りにくくなっている。
カトリックは土葬をしその後10年後に掘り返し骨を集めるが、近年は掘り返しても腐敗が以前より進まずに、5年後、10年後と掘り返していうようだ。
これには、食品添加物の影響があると挙げられている。

生命は死を迎えると朽ち果て、新たな生命の礎となる。

その輪廻を外れはじめる人類。
生命の輪を外れ、生命という存在の外に向かおうとしているのかもしれない。

まさに永遠の肉体を持つ聖人になろうとしている。

僕らは考えているフリをしているだけかもしれない

久しぶりにすすきののマックに来てみると、全席完全禁煙になっていたり、以前より過ごしやすくなった。
目の前には、工事の足場を外している作業員。
本日は気温30度を超える真夏日

何を書こうかとパソコンに向かって考える。

しかし、考えるとは何だ。

脳内にシナプスを巡らせ、答えを探すことなのか。
無意識と意識の差なのか。

どこまでが考えるで、どこまでが考えていないとなるのだろう。

深く考えるとはどのようなことだろう。

時間があれば文献を漁ることにしよう。

理解することと同意することは違う

会議を進めていると、発言しない人と発言ばかりする人がいる。

もうこれは小学生のときの学級会から永遠とつづいていたものであったし、人には個人差があるので、当たり前といえば当たり前。

 

そこには、何があるのだろう。

ひとつは、顕示欲の差ではないかと思われる。

意識的であっても無意識的であっても、自らの意見は自らの思考の開示であり、自分の口から発せられるものには、自分が含まれてしまう。

 

顕示することが快であったり、不快であったり。

それは理解するが、会議の進行役としてみたら、たまったものじゃない。

 

そこで、見つけたのが、ネイティヴアメリカンの話し合いの場のつくり方の技法である、トーキングスティック。

スティックを持つ人だけが、話をすることができ、自分が語り終えたら、スティックを戻すという技

肝心なのは、話す側が、その場の人が理解してくれていると思えたら、という条件もあるらしい。

ブレインストーミングとは異なり、スティックを持っていない者には、発言権がない。

 そんなことも魅力のひとつかもしれない。

 

ブレインストーミングは否定を含まない技法だが、さまざまなアイディアを出し合うことによって、アイディアの方向性が示されがちになる。

もちろんまったく別の意見を言いにくい雰囲気も出てきてしまうこともある。

 

逆にトーキングスティックはそれぞれの意見を納得できるまではなせるという、個の満足感があるように思われる。

 

ただし、時間的制約やある程度の成果が必要な場合の会議の方が、世の中多いわけであって、両者のバランスを取りながら進行するのも手だとは思う。

以上のように、さまざまな技法を用いることによって、会議の進行はできる。

だが、それだけでは問題は解決しない。
それは、理解と同意の違いを、どう理解してもらえるのか。

これは、若い人には限らない問題と考えていて、問題解決をしようと話をしているのに、理解してもらったら満足されてしまうとか、自分の意見が通らないと、あの人は話を理解してくれないという人に出会う。

そのような人には、建設的な話をしようとしても、通じない。

私自身の力量の問題でもあるのだが、今後も取り組んでいきたい課題である。

ブログタイトルの意味することろ

インターネットが発展し、誰もが発信者になり得る時代。

そんな中で私の言葉はどこまで届くのだろうか。

どれほど共感を得られるのだろうか。

 

facebookでは載せきれない思いを届けるため

そして、自らの思考を文章に載せて解消するため

様々なものを吸収しながら肥沃な大地へと育てるために

 

そんな思いでタイトルをつけてみました。