cultura

culturaとは古典ラテン語における耕すという意味。

理解することと同意することは違う

会議を進めていると、発言しない人と発言ばかりする人がいる。

もうこれは小学生のときの学級会から永遠とつづいていたものであったし、人には個人差があるので、当たり前といえば当たり前。

 

そこには、何があるのだろう。

ひとつは、顕示欲の差ではないかと思われる。

意識的であっても無意識的であっても、自らの意見は自らの思考の開示であり、自分の口から発せられるものには、自分が含まれてしまう。

 

顕示することが快であったり、不快であったり。

それは理解するが、会議の進行役としてみたら、たまったものじゃない。

 

そこで、見つけたのが、ネイティヴアメリカンの話し合いの場のつくり方の技法である、トーキングスティック。

スティックを持つ人だけが、話をすることができ、自分が語り終えたら、スティックを戻すという技

肝心なのは、話す側が、その場の人が理解してくれていると思えたら、という条件もあるらしい。

ブレインストーミングとは異なり、スティックを持っていない者には、発言権がない。

 そんなことも魅力のひとつかもしれない。

 

ブレインストーミングは否定を含まない技法だが、さまざまなアイディアを出し合うことによって、アイディアの方向性が示されがちになる。

もちろんまったく別の意見を言いにくい雰囲気も出てきてしまうこともある。

 

逆にトーキングスティックはそれぞれの意見を納得できるまではなせるという、個の満足感があるように思われる。

 

ただし、時間的制約やある程度の成果が必要な場合の会議の方が、世の中多いわけであって、両者のバランスを取りながら進行するのも手だとは思う。

以上のように、さまざまな技法を用いることによって、会議の進行はできる。

だが、それだけでは問題は解決しない。
それは、理解と同意の違いを、どう理解してもらえるのか。

これは、若い人には限らない問題と考えていて、問題解決をしようと話をしているのに、理解してもらったら満足されてしまうとか、自分の意見が通らないと、あの人は話を理解してくれないという人に出会う。

そのような人には、建設的な話をしようとしても、通じない。

私自身の力量の問題でもあるのだが、今後も取り組んでいきたい課題である。